同和問題の用語解説

     

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えた(穢多)

    

 河原に住み、牛馬を殺して皮を剥ぐ仕事をしていたところから、差別を受けていた人びとに対する呼称として、鎌倉時代の末ごろからあらわれた名称。 やがて戦国時代になると、戦国大名は軍事的に必要な皮革(馬具や甲冑などに使用された)を手に入れるために、皮革職人としての「えた」「かわた」を組織し、屋敷地をあたえたり、領内の皮の流通独占権を持たせたりして優遇しましたが、賎民身分から解放することはしませんでした。 こうして他のさまざまな中世賎民とともに「えた」「かわた」も、近世封建制の成立のなかでとらえなおされ、強固な賎民身分として近世身分制の最底辺におかれました。 しかしこのことは、中世の「えた」「かわた」が、そのまま近世の賎民身分になったということではありません。 中世の社会はまだ流動的で、賎民でもその身分から逃れることも不可能ではありませんでしたし、近世封建制のもとで新たに「えた」身分に落とされた者も少なくはありませんでした。

 封建制のもとで、「えた」「かわた」は、領主に皮革を納めるかわりに、死んだ牛や馬をひきとり処理する特権(斃牛馬処理権)を認められたほか、皮革業を行なうための作業場として屋敷地をあたえられたり、年貢を免除されたりすることも多くありました。 しかしこれらはいずれも、賎民としての身分と結びついた権利であり、日常生活の上では賎民身分としてさまざまな厳しい差別を受けていました。 しかも特権をもっていた者は一部に限られており、多くの人は農業、皮革加工業、日雇い賃かせぎなど雑多な仕事で生計をたてていました。 領主によっては、「えた」身分の者を罪科人の処刑や警察組織の手先としてつかい、分裂支配の手段として利用したところもあり、「長吏」とも呼ばれました。

 商工業の発達にともなって江戸の弾左衛門や大阪の太鼓屋又兵衛のように、「えた」身分のなかにも豊かな人たちがあらわれました。 しかし、ゆるぎはじめた封建制を建て直すために、身分支配が強められるなかで、賎民身分に対する差別はますます厳しくなり、「えた」身分の多くは一段と貧しい生活を強いられるようになりました。 もとより「えた」身分の人たちは、こうした差別と貧困に泣き寝入りしていたわけではありません。  1856(安政3)年の渋染一揆に代表されるように、幕末に近づくにつれて「えた」身分の人びとも、差別と貧困に抵抗して立ちあがり、身分差別撤廃のたたかいを展開していきました。

 また「えた(穢多)」より非人のほうが身分は下とされたものの、「えた」が世襲的な固定身分だったのに対し、非人は1代限りで、しかも領主に対する貢献度があれば「足抜け」が認められるなど、賎民身分間の分断もおこなわれていたようです。

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東京人権と生活運動連合会